間中健介――「骨太方針2025」を読む 待ったなしの「賃上げ」の行方

――茨城大学講師
元内閣官房 新しい資本主義実現本部事務局 企画官――

「骨太2025」で強調された「賃上げ」

参院選直前に決定された石破内閣の「骨太方針2025」では「賃上げ」が最も強調された。

政府の重点政策は今後の政権次第で変動し得るものの、野党各党も程度の差こそあれ「賃上げ」を公約に掲げている以上、このテーマが軽視される可能性は低い。

今回の骨太方針は、これまで以上に複雑さを増した日本経済の環境下で策定された。

人口減少のスピードはさらに加速し、資本コストは上昇、交易条件は悪化している。生成AIの普及を背景に、熾烈なイノベーション競争が世界で繰り広げられている。トランプ関税による市場の大混乱は一時的に収束したかに見えるが、市場の不確実性は依然として高く、企業業績の先行きも不透明なままだ。

このような状況で練り上げられた石破内閣の「賃上げ」方針は、前岸田内閣の流れを踏襲しつつも、独自の工夫が加えられている。

注目すべきは、年1%程度の“実質”賃金上昇の軌道を描くこと、また、2020年代中に全国平均の最低賃金を時給1,500円にするという数値目標を掲げた点である。

実質賃金は3年連続でマイナスという現状を踏まえると、これは極めてアグレッシブな目標である。最低賃金目標も、岸田政権時代の方針をさらに洗練させ、年平均7%超の引き上げを想定している。

ただし、「実質1%上昇」という表現では、インパクトに欠けはしないか。これでは、多くの国民にとって、「今日より明日がよくなる」とは思いづらいだろう。

なにしろ、サラリーマンにとっては給与明細に記載されている数字がすべてなのだから、月収25万円の人は「この物価高なのに2,500円しか増えないの?」と誤解を招きかねない。

実際には、2025年の消費者物価指数は前年比3%超の上昇が見込まれているため、「実質1%上昇」とは4%の名目賃上げを意味する。つまり、「月収25万円の人は、1万円の賃上げが目標です」と伝えなければ、政府の意図は伝わらない。

政府が本気で賃上げを実現しようとしているのならば、その広報と国民のコミュニケーションにも、より真剣に取り組むべきだろう。

「新陳代謝」と「リスキリング」の加速を

実質賃金が低下している要因の一つは、交易条件の悪化である。しかし、これは単に金融政策で円安を是正すれば解決されるものではない。また、金融政策で持続的な円高に転じさせることも現実的ではない。

輸入物価上昇を上回る輸出価格の上昇を実現するには、日本企業が新たな価値を創出し、世界から人材と投資を呼び込む必要がある。そのためには、新興国の成長率を上回る一人あたりの生産性向上が不可欠だ。

そのカギとなるのが、「果断な企業行動」と、「リスキリング」のさらなる加速である。

前者からみていこう。

たとえば、NTTとSBIホールディングスの資本業務提携や、三井住友FGとソフトバンク、あるいはマネーフォワードとの業務提携など、銀行業界・通信業界で見られる最近の提携は、単にブランド獲得やマーケットアクセスを目的としたものではなく、従来の枠組みを超えた経営戦略の進化を目指すものだ。

また、トヨタグループでは政策保有株式の抜本的な見直しが進行中であり、コーポレート・ガバナンス改革や金融資本市場改革によって、ゾンビ企業の退出や大企業の構造改革といった長年の課題にも進展が見られる。

コロナ禍をへて新陳代謝への合意形成が進んだからだろう。

同時にAIを起点とするイノベーション競争は、東証プライム企業にスタートアップ並みの成長力を、大型スタートアップにはプライム企業並みの投資耐性を求めている。

このような時代において、大企業とスタートアップが国境や業種の垣根を越えて成長していくには、長期資金の供給体制の整備が不可欠であり、同時に短期的なROEやIRRの低下を許容できる資本市場の構築も必要だ。

国家をまたいだ企業行動の進展には、政府自身が汗をかく覚悟も求められている。

働き手のリスキリング「苦労が買える仕組み」を

リスキリングの現状には依然として大きな課題がある。デジタル人材育成の入り口である国家試験「ITパスポート試験」の応募者数は、平成末期から3倍に増え、昨年度は年間30万人を超えた。しかし、高度な情報処理技術者を対象とする高難度の試験の応募者数は伸び悩んでいる。

また、TOEICについても、Listening, Reading(LR)の受験者数は年間約200万人だが、Speaking, Writing(SW)は依然3万人台にとどまっている。

もちろん、資格だけがリスキリングではない。OJTの充実も重要である。しかし、日本企業の現状は深刻だ。

独立行政法人労働政策研究・研修機構(JIL)の調査によれば、大企業においてすら、大卒者が20年勤めても8割が課長に昇進していない。「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言われても、その苦労が“売っていない”のが現状だ。

若年層には、早期に経営意思決定を経験させ経営人材のスタートラインに立たせる仕組みが必要だ。人的資本向上の観点からも、政府による後押しが求められる。

「年収の壁」に注目―中流層の「高負担感」の解決を

さて、昨今の国政選挙で顕著なのは、複数の政党が社会保険料の引き下げに言及していることだ。

実際、就業者の社会保険料負担は年々増加し、2025年度には健康保険組合の平均保険料率が過去最高の9.34%に達する見通しだ。

筆者の推計によると、高校・大学等を卒業後に常時雇用者として40年間働いた場合、中小企業勤務で総額3,000万円超、公務員や都市部の中堅企業勤務で総額4,500万円超の社会保険料を支払う可能性がある。

給与水準の高い大企業勤務者であれば、さらに負担は重くなる。
(※公的年金、厚生年金、雇用保険の被保険者負担分の合計。健康保険料は協会けんぽの値)

特にミドル世代では、家族分の保険料も事実上負担する構造となっており、社会保険料は住宅ローン以上に重くのしかかる支出となっている。公的年金保険料は将来の給付と理解できるが、健康保険料は「健康な人にとってはほぼ掛け捨て」である。

こうした「高負担感」に対し、政府がどのような対策を講じていくのかは、注目すべきポイントである。

「年収の壁」対策は一つの糸口にすぎないが、仮に中小企業経営者や中流層が負担軽減を実感できる施策となれば、「今日より明日はよくなる」と期待が膨らむかもしれない。

間中健介 茨城大学講師 元内閣官房 新しい資本主義実現本部事務局 企画官

東京都立大学大学院修了。米系コンサルティング会社勤務、創薬支援会社役員等をへて2014年より内閣官房スタッフとして8年超にわたり成長戦略の企画立案に関わる。慶應義塾大学大学院特任教員をへて2023年より茨城大学講師。人的資本投資、起業家育成のテーマに取り組む。